「津久井やまゆり園事件を考え続けるために」 佐藤幹夫 8回忌に向けて(飢餓陣営WEB版 その1)
*津久井やまゆり園事件8回忌に向けて、飢餓陣営掲載の関連全原稿を、順次公開してきます。
【相模原の「津久井やまゆり園事件」直後のブログから】 佐藤幹夫
1. 事件直後に考えたこと(略)
(『津久井やまゆり園「優生テロ事件」、その深層とその後』(現代書館)に採録)
2.原理原則を破ってでも書いておかなくてはならなかったこと
相模原の、この事件も、「裁判員裁判」になるのですね。大丈夫でしょうか。
司法のトップも、いろいろと考えているだろうとは思いますが、50人近い被害者を、一人ずつ証拠調べをして、事実認定をして、反対尋問や弁論をしていくことになるわけですが、現場の写真も、何百枚と見なければらない。裁判員に選ばれた方々は、耐えられるのでしょうか。
ふと、そんなこと思いました。そろそろ、裁判員制度に修正を加えてもよいのではないか、と個人的には感じていますが、どうなることやら。
もうひとつ、本来ならば、相模原事件も、今この時点では推定無罪です。基本的には、「判決」が出るまで、犯人視した言説は、控えなくてはならない。植松容疑者を、この段階で犯人(有罪)だと決めつけてしまうことは、じつは、とても危ういことだろうという、無言のメッセージをいただいていることは、わたしのほうも感じていました。
しかし今回ばかりは、原則を破ってでも、いま、この時点で発信しなければならないことがある、と強く感じている。その点も含め、これから書いていきたいと思います。
現時点で、新たな情報はほとんどないのですが、もう少し、植松容疑者という人物像について、推測を交えて迫ってみたいと思います。第1回目のブログで、私は次のように書きました。
「だから(「知的障害者」が)、植松容疑者には、「意思疎通のできない人間たち」「何もできない人間」としか受けとめられなかったかもしれませんが、それはむしろ、植松容疑者自身の問題です。」
「植松容疑者自身の問題」という点に関する記述は、ここで止まっていますが、これにはじつは続きがありました。
もう少し〝そもそも〟の話をすれば、植松容疑者が、なぜ、「障害者はいない方がいい、だから殺した方がいい」などという考えに取り憑かれてしまったのか、その筋道を知りたい、今できる範囲でたどってみたい。そう考えていました。そして引用の文章の後、「重度重複知的障害者」と呼ばれる人たちがどんな人たちか、彼らとの交流がどんなふうになされていくか、一回目のブログでは、わたしの知る限りのことを書きました。そしてこの後、続けなくてはならないことがもう一つあったのですが、3回目はその点についての記述から始まります。
それは、「障害者なんていない方がいい、だから殺していい」という言葉は、ほんとうは、その〝起源〟は自分自身に向けられていたものではなかったか、ということです。
心理学の「いろは」を開陳してしまうことになりますが、他者は自己の鏡像です。あるいは、自己とは他者の鏡像です。「何もできない重度重複障害者」とは、したがって、「自分が一番恐れている自分自身の姿」です。してみると、「障害者はいない方がいい、だから殺してもいい」という愚劣な考え方は、まずは自分に向けられたものだった。彼が最も見てはいけない(見たくない)自分の姿だった。
ところが、ここから自己合理化が始まります。少しだけ加工し、言い換えると次のようになります。
「役に立たないお前(植松容疑者)は生きている価値はない」
→「役に立たない人間は生きている価値はない」
→「役に立たない障害者は生きている価値がない」
報道をずっと追っていくと、人当たりがいい、気立てがいい、場を明るく仕切る、こんな言葉が、知人たちから聞かれます。仲間たちのお荷物にはならないで、むしろ彼らが困っているときにはサポートしたい、それができるような人間になりたい。強くそう望んでいたはずです。そして言葉通り、仲間たちの役に立つ(役に立ちたい)人間として、振る舞っていた。
しかしその内面では、「役に立たない人間は生きている価値はない。死んだ方がいい」という声が、植松容疑者を絶えず背後から脅かしていた。植松容疑者は、必死になって仲間たちの間でも、社会的にも、やまゆり園でも、「役に立つ」人間になろうとしていた。多少なりとも、自信めいた気持ちがあったかもしれませんが、しかし第1回目のブログに書いたように、歯が立たなかった。援助者として身に着けておきたいスキルを(これは広く、援助技術、心構え、支援観、障害観、死生観などを含むものだと考えていただければと思います)、身に着けることができなかった。
自分の向けられていた「役に立たない人間」という感情が、やがて誰に向けられるようになっていくかというと、障害を持っている人たちです。自分に向けられ、かろうじて踏みとどまっていた植松容疑者は、あるところを境にして、一気に怒りを「障害者」の人たちに向けるようになった。それまで明るく、まじめに仕事に励もうとしてきた植松容疑者は、このあたりから変貌していく。「入れ墨」を掘り、髪を染めたのは、明らかに、「もうよい子はやめた」というサインだったのではないしょうか。いつからはじめたのか、いまのところ確定した事実は分かりませんが、大麻に手を染めるようになったのも、ここに関連しないでしょうか〔大学時代に脱法ハーブの吸引をはじめ、大麻の常習化は大学になってから――後註〕。
もちろんこれらはわたしの推量です。仮説とも呼べない憶測です。しかしとりあえずのオーソドックスな心理分析のセオリーを一つずつ積み上げていけば、植松容疑者の大まかな精神風景を、デッサンとして描くことはできるだろうと考えるのです。そうすると、次の問題が出てきます。 「役に立たない人間は、存在しない方がいい」という言葉(あるいはそうした考え方)が、植松容疑者の中にどこからやってきたのか、それをもたらした者はだれか、という問いです。
一般的に、人がどうやって言葉を身につけて、習得していくかといえば、周りにいる大人(多くは親)の、絶え間のない話しかけによってです。これがなければ言葉は習得できない。赤ちゃんのほうは、にこにこしながらキャッキャッと返し、さらにまた話しかけられ、そうやって笑顔とともに、おびただしい言葉と感情の交流をくりかえす。おおまかにいって、これが言葉の基盤であることは、発達論研究からもいえることだと思います。
やがて赤ちゃんの発声や発語が、喃語(むにゅ、むゆあ、むにゃ)になり、そして少しずつ多義性をおびた単語になっていく(「まんままんま」がお母さんをさしたり、ごはんをさしたり、猫であったりというように、とにかく「まんま」)。そして指される方の「まんま」は分節され、おかあさん、ごはん、ねこ、と少しずつ定まっていき、「意味するもの(音声)―意味されるもの(ある物)」が定まっていく。
そして次には、「1語文」といわれる単語での交流が始まっていく。これは単なる「1語」が発せられる、ということではない。「1語」を使って「語りかける―語りかけられる」、という言葉による交流の土台ができつつあるということです(ちなみに、この「語りかける―語りかけられる」という交流の習得に、いきなりつまずいてしまうのが、自閉症と呼ばれる子どもたちです)。
説明しなくてはならないことは、まだまだたくさんあるのですが、ざっとこんな筋道を描いておきましょう。
わたしが述べたいことは次のことです。
心的な土台が何もないまっさらな状態にあるとき、そこに、何らかの言葉が自然発生的に、それ自体として浮かび上がってくることはない。先の言語習得の筋道からも、「障害者は殺してもよい」という言葉(あるいは「役に立たないものは生きている価値がない」という言葉)は、植松容疑者の中に、彼自らの力で自然発生的に浮かび上がってきたものではなく、おそらくは身近な大人の誰か(なにか)によって、その原型が、何らかの形でもたらされたものだろう、そのような蓋然性が高いだろう、ということになります。
理屈を追っていけば、そんな筋道を思い描くことができる。
ただし、一般論として推測してよいのは、ここまででしょう。
「こんな中途半端なところで止めるのか」と思われるかもしれませんが、幼少期からの成育歴や家族歴に関する情報は、今のところ、ほとんど出てきていません(小学校時代の友人は、明るい、いいやつだった、というものが過半です)。
さて、ここからどう進めればいいでしょうか。
ちょうど、8月2日の東京新聞夕刊に、次のような興味深い記事がのっていました。
「ヒトラーと似た考え「施設側指摘で知った」容疑者供述」という見出しで、2段の小さな記事です。
「(略)障害者に対する差別的な考えについて、「ヒトラーと似ていることは、施設側に言われて気付いた」と供述していることが二日、捜査関係者への取材で分かった。」
「施設側によると、植松容疑者が周囲に「障害者は死んだ方がいい」と発言したため、二月十九日に面談。その際、施設関係者が「ナチス・ドイツの考えと同じだ」と非難した。植松容疑者は「そう捉えられても構わない」と反論し、退職の意向を示した。/同日中に緊急措置入院した植松容疑者は翌二十日、「ヒトラー思想が二週間前に降りてきた」と話していた。捜査関係者によると、植松容疑者は発言について、「施設側にそう言われたので措置入院中に言ってみただけ」と説明。自宅の家宅捜査でも、ヒトラーに関する書籍は見つからなかった」
植松容疑者の「障害者は殺してもよい」という考えは、本で読んだりして身につけたものではない、とうことがこの記事から分かります。つまり、ある一定の年齢になったとき、自分の中に生じてきた激しい違和感や、衝動性、攻撃性に驚き、自分はどうなってしまったんだろうと不安になる。その時に出遭った、ヒトラーとか、切り裂きジャックとか、酒鬼薔薇少年とか、そうした特異な人物に圧倒的な影響を受け、その考え方を自分のものとしていく。そしてロール・モデルとして、大量殺戮への傾斜、極端に差別的・排外的な考えに傾いていくという人物が、ときに現れます。
ところが、先の記事を見る限り、植松容疑者はどうもそうではなかったのではないか。自分の考えを述べたら、それはヒトラーと同じだと言われたということは、ヒトラーよりも前に、そうした考えの萌芽をもつにいたっていた。
「人の役に立つ人間になれ」という言葉があります。とりあえずはよく聞かれる、普通の〝励まし〟の言葉です。ところが、何をやっても失敗ばかりしている人間、何をやっても「よくやった」とほめてもらえない子どもにとっては、「お前は役に立たない人間だ」というメッセージに、形を変えていきます。
植松容疑者にとっては、自分がそのように決め付けられることは、大きな恐怖だったのではないか。恐怖から逃れるためには、自分の目の前に、「役に立たない人間」を作り上げればいい。それが自己合理化の筋道であることは、すでに書いた通りです。
こうした考えは、わたし一人ではなく、非行臨床のスペシャリストで、相談室を運営し始めたFさんからも、次のようなメールをいただきました〔今回の再掲載にあたって、許可をいただいていないので匿名にします――後註〕
心理屋の私の視点としては、植松容疑者は、
自身も「役立たず」と思われることを恐れていたのだろうと考えています。
おそらく幼少時から「良い子」であること、「成果をあげること」、
「親の期待に沿うこと」で自身を縛ってきたような気がしています。
そういう人が大学に入り一人暮らしをすると、
ちょっとした逸脱に憧れて少し生活が乱れますが、
そこまで逸脱しきる気はなく、一応卒業して、
教師になれなくても社会に役に立つ介護職といった選択、
「役に立つ」自分をアピールしようとしたのかもしれません。
ただ、そこに、薬物乱用による精神変調と施設での挫折が加重されて、
妄想状態になったのであろうと推察しています。
世間一般に、「役に立つ人」、「達成による評価」、「人より「上」か「下」か」
という基準のみが横行していることの影響も大きいのではないでしょうか?
基本的には、わたしもこうした考えに立っています。
そしてFさんは、もうひとつ、非常に興味深い考えも寄せてくれました。
実は、私も高校生の頃、「知的障害者に生きている意味はあるか?」という疑問を抱いたことがあります。
それは自分が生きている意味はあるかということの裏返しだったと思います。
結局、「生きている意味の有無は、私が決められることではない」という結論に達しました。
「裁くことの不遜」は「裁かれる恐れ」、「誰にも受け止められない空っぽさ」からくるのかもしれないと考えています。
F・J
この点についても、じつは、わたしも同様なのです。
小学校2,3年生のころ、目の前で、いつも、体を突っ張らせたまま、ごろん、と横になったままの弟を見ながら、「弟は、こんなにたいへんなのに、何のために生きているんだろう」などと、ときどき考えることがありました。もちろん口にはできません。
親が死んだあとは、自分が見ていくんだろうな、とぼんやりと(ほんとうにぼんやりと、ですが)、考えることもありました。その他いろいろ。だからわたしも、小学校3年生くらいから、弟を見て「生きている意味があるんだろうか」みたいなことは、考えていたような気がします。
つまり、ひょっとしたら、わたしもまた植松容疑者と、同じことを考えていたかもしれないのです。
生きて、生活の時間を共にしていくということは、きれいごとばかりでは済まないのはもちろんです。わたしは幸いなことに、世間様との間で引き起こされる、激しい不況和音の渦中におかれることは少なかったのですが、それでも、きれいごとだけでなかったことは確かです。
ただし、時間をかけてだんだんと気づいていくのですが、わたしの場合は、彼が生きてそこにいるということを、あるいは、これから一緒に生きていくのだろうということを、肯定するために、その問いを問い続けていました。問う必要があったわけです。その後、家庭内事情がやまのように生じてきて(全部割愛しますが)、彼は東京の島田療育園(当時)に入園し、そこで2年ほど過ごして他界します。
あまりこんな言い方はしない方がいいのですが、彼の命と引き換えに、わたしはいまここにいて、好き勝手なことをこうして書いているわけです。
ともあれ、Fさん同様、わたしも「障害をもって生きるということには、どんな意味があるのだろうか」ということを、とても長い時間をかけて考えてきました(どう考えたか、その間のことは、2003年に出した『ハンディキャップ論』(洋泉社新書・y)という本にまとめています)。ところが、「どうして生きているのだろう」という同じ問いを、植松容疑者は、逆のほうに(死んだ方がいい、殺した方がいい)という方向に、一気に引っ張っていき、そして実行してしまった。
こんな愚かしい考えを持ち、こんな愚かしいことを実行してしまった、という衝撃以上に、自分が20年、30年かけて考えてきたことを、一瞬のうちにコケにされてしまった。そんな衝撃というか、憤りというか、どうにも言い難い怒りのようなものを感じました。
だから「障害者には生きる価値はない、殺してもよい」という考えが報道を通して表明されたとき、様々な意味で、断固として「それはとんでもなく間違っている」と、声を大にして、言わなくてはならない、強くそう感じたのです。
だから今回だけは、情報がないとか、証拠が特定されていないとか、判決が出るまでは推定無罪の原則があり、逮捕段階で植松容疑者を犯人と決めつけることはまちがいだとか、これまで自分のなかで原理・原則としてきたことを脇に置いてでも、言わなくてはならないことがある、と感じてきたのでした。第2回目のブログでは、そのことを書いておきたいと思いました(2016・8・5)

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【相模原の「津久井やまゆり園事件」直後のブログから】 佐藤幹夫
1. 事件直後に考えたこと(略)
(『津久井やまゆり園「優生テロ事件」、その深層とその後』(現代書館)に採録)
2.原理原則を破ってでも書いておかなくてはならなかったこと
相模原の、この事件も、「裁判員裁判」になるのですね。大丈夫でしょうか。
司法のトップも、いろいろと考えているだろうとは思いますが、50人近い被害者を、一人ずつ証拠調べをして、事実認定をして、反対尋問や弁論をしていくことになるわけですが、現場の写真も、何百枚と見なければらない。裁判員に選ばれた方々は、耐えられるのでしょうか。
ふと、そんなこと思いました。そろそろ、裁判員制度に修正を加えてもよいのではないか、と個人的には感じていますが、どうなることやら。
もうひとつ、本来ならば、相模原事件も、今この時点では推定無罪です。基本的には、「判決」が出るまで、犯人視した言説は、控えなくてはならない。植松容疑者を、この段階で犯人(有罪)だと決めつけてしまうことは、じつは、とても危ういことだろうという、無言のメッセージをいただいていることは、わたしのほうも感じていました。
しかし今回ばかりは、原則を破ってでも、いま、この時点で発信しなければならないことがある、と強く感じている。その点も含め、これから書いていきたいと思います。
現時点で、新たな情報はほとんどないのですが、もう少し、植松容疑者という人物像について、推測を交えて迫ってみたいと思います。第1回目のブログで、私は次のように書きました。
「だから(「知的障害者」が)、植松容疑者には、「意思疎通のできない人間たち」「何もできない人間」としか受けとめられなかったかもしれませんが、それはむしろ、植松容疑者自身の問題です。」
「植松容疑者自身の問題」という点に関する記述は、ここで止まっていますが、これにはじつは続きがありました。
もう少し〝そもそも〟の話をすれば、植松容疑者が、なぜ、「障害者はいない方がいい、だから殺した方がいい」などという考えに取り憑かれてしまったのか、その筋道を知りたい、今できる範囲でたどってみたい。そう考えていました。そして引用の文章の後、「重度重複知的障害者」と呼ばれる人たちがどんな人たちか、彼らとの交流がどんなふうになされていくか、一回目のブログでは、わたしの知る限りのことを書きました。そしてこの後、続けなくてはならないことがもう一つあったのですが、3回目はその点についての記述から始まります。
それは、「障害者なんていない方がいい、だから殺していい」という言葉は、ほんとうは、その〝起源〟は自分自身に向けられていたものではなかったか、ということです。
心理学の「いろは」を開陳してしまうことになりますが、他者は自己の鏡像です。あるいは、自己とは他者の鏡像です。「何もできない重度重複障害者」とは、したがって、「自分が一番恐れている自分自身の姿」です。してみると、「障害者はいない方がいい、だから殺してもいい」という愚劣な考え方は、まずは自分に向けられたものだった。彼が最も見てはいけない(見たくない)自分の姿だった。
ところが、ここから自己合理化が始まります。少しだけ加工し、言い換えると次のようになります。
「役に立たないお前(植松容疑者)は生きている価値はない」
→「役に立たない人間は生きている価値はない」
→「役に立たない障害者は生きている価値がない」
報道をずっと追っていくと、人当たりがいい、気立てがいい、場を明るく仕切る、こんな言葉が、知人たちから聞かれます。仲間たちのお荷物にはならないで、むしろ彼らが困っているときにはサポートしたい、それができるような人間になりたい。強くそう望んでいたはずです。そして言葉通り、仲間たちの役に立つ(役に立ちたい)人間として、振る舞っていた。
しかしその内面では、「役に立たない人間は生きている価値はない。死んだ方がいい」という声が、植松容疑者を絶えず背後から脅かしていた。植松容疑者は、必死になって仲間たちの間でも、社会的にも、やまゆり園でも、「役に立つ」人間になろうとしていた。多少なりとも、自信めいた気持ちがあったかもしれませんが、しかし第1回目のブログに書いたように、歯が立たなかった。援助者として身に着けておきたいスキルを(これは広く、援助技術、心構え、支援観、障害観、死生観などを含むものだと考えていただければと思います)、身に着けることができなかった。
自分の向けられていた「役に立たない人間」という感情が、やがて誰に向けられるようになっていくかというと、障害を持っている人たちです。自分に向けられ、かろうじて踏みとどまっていた植松容疑者は、あるところを境にして、一気に怒りを「障害者」の人たちに向けるようになった。それまで明るく、まじめに仕事に励もうとしてきた植松容疑者は、このあたりから変貌していく。「入れ墨」を掘り、髪を染めたのは、明らかに、「もうよい子はやめた」というサインだったのではないしょうか。いつからはじめたのか、いまのところ確定した事実は分かりませんが、大麻に手を染めるようになったのも、ここに関連しないでしょうか〔大学時代に脱法ハーブの吸引をはじめ、大麻の常習化は大学になってから――後註〕。
もちろんこれらはわたしの推量です。仮説とも呼べない憶測です。しかしとりあえずのオーソドックスな心理分析のセオリーを一つずつ積み上げていけば、植松容疑者の大まかな精神風景を、デッサンとして描くことはできるだろうと考えるのです。そうすると、次の問題が出てきます。 「役に立たない人間は、存在しない方がいい」という言葉(あるいはそうした考え方)が、植松容疑者の中にどこからやってきたのか、それをもたらした者はだれか、という問いです。
一般的に、人がどうやって言葉を身につけて、習得していくかといえば、周りにいる大人(多くは親)の、絶え間のない話しかけによってです。これがなければ言葉は習得できない。赤ちゃんのほうは、にこにこしながらキャッキャッと返し、さらにまた話しかけられ、そうやって笑顔とともに、おびただしい言葉と感情の交流をくりかえす。おおまかにいって、これが言葉の基盤であることは、発達論研究からもいえることだと思います。
やがて赤ちゃんの発声や発語が、喃語(むにゅ、むゆあ、むにゃ)になり、そして少しずつ多義性をおびた単語になっていく(「まんままんま」がお母さんをさしたり、ごはんをさしたり、猫であったりというように、とにかく「まんま」)。そして指される方の「まんま」は分節され、おかあさん、ごはん、ねこ、と少しずつ定まっていき、「意味するもの(音声)―意味されるもの(ある物)」が定まっていく。
そして次には、「1語文」といわれる単語での交流が始まっていく。これは単なる「1語」が発せられる、ということではない。「1語」を使って「語りかける―語りかけられる」、という言葉による交流の土台ができつつあるということです(ちなみに、この「語りかける―語りかけられる」という交流の習得に、いきなりつまずいてしまうのが、自閉症と呼ばれる子どもたちです)。
説明しなくてはならないことは、まだまだたくさんあるのですが、ざっとこんな筋道を描いておきましょう。
わたしが述べたいことは次のことです。
心的な土台が何もないまっさらな状態にあるとき、そこに、何らかの言葉が自然発生的に、それ自体として浮かび上がってくることはない。先の言語習得の筋道からも、「障害者は殺してもよい」という言葉(あるいは「役に立たないものは生きている価値がない」という言葉)は、植松容疑者の中に、彼自らの力で自然発生的に浮かび上がってきたものではなく、おそらくは身近な大人の誰か(なにか)によって、その原型が、何らかの形でもたらされたものだろう、そのような蓋然性が高いだろう、ということになります。
理屈を追っていけば、そんな筋道を思い描くことができる。
ただし、一般論として推測してよいのは、ここまででしょう。
「こんな中途半端なところで止めるのか」と思われるかもしれませんが、幼少期からの成育歴や家族歴に関する情報は、今のところ、ほとんど出てきていません(小学校時代の友人は、明るい、いいやつだった、というものが過半です)。
さて、ここからどう進めればいいでしょうか。
ちょうど、8月2日の東京新聞夕刊に、次のような興味深い記事がのっていました。
「ヒトラーと似た考え「施設側指摘で知った」容疑者供述」という見出しで、2段の小さな記事です。
「(略)障害者に対する差別的な考えについて、「ヒトラーと似ていることは、施設側に言われて気付いた」と供述していることが二日、捜査関係者への取材で分かった。」
「施設側によると、植松容疑者が周囲に「障害者は死んだ方がいい」と発言したため、二月十九日に面談。その際、施設関係者が「ナチス・ドイツの考えと同じだ」と非難した。植松容疑者は「そう捉えられても構わない」と反論し、退職の意向を示した。/同日中に緊急措置入院した植松容疑者は翌二十日、「ヒトラー思想が二週間前に降りてきた」と話していた。捜査関係者によると、植松容疑者は発言について、「施設側にそう言われたので措置入院中に言ってみただけ」と説明。自宅の家宅捜査でも、ヒトラーに関する書籍は見つからなかった」
植松容疑者の「障害者は殺してもよい」という考えは、本で読んだりして身につけたものではない、とうことがこの記事から分かります。つまり、ある一定の年齢になったとき、自分の中に生じてきた激しい違和感や、衝動性、攻撃性に驚き、自分はどうなってしまったんだろうと不安になる。その時に出遭った、ヒトラーとか、切り裂きジャックとか、酒鬼薔薇少年とか、そうした特異な人物に圧倒的な影響を受け、その考え方を自分のものとしていく。そしてロール・モデルとして、大量殺戮への傾斜、極端に差別的・排外的な考えに傾いていくという人物が、ときに現れます。
ところが、先の記事を見る限り、植松容疑者はどうもそうではなかったのではないか。自分の考えを述べたら、それはヒトラーと同じだと言われたということは、ヒトラーよりも前に、そうした考えの萌芽をもつにいたっていた。
「人の役に立つ人間になれ」という言葉があります。とりあえずはよく聞かれる、普通の〝励まし〟の言葉です。ところが、何をやっても失敗ばかりしている人間、何をやっても「よくやった」とほめてもらえない子どもにとっては、「お前は役に立たない人間だ」というメッセージに、形を変えていきます。
植松容疑者にとっては、自分がそのように決め付けられることは、大きな恐怖だったのではないか。恐怖から逃れるためには、自分の目の前に、「役に立たない人間」を作り上げればいい。それが自己合理化の筋道であることは、すでに書いた通りです。
こうした考えは、わたし一人ではなく、非行臨床のスペシャリストで、相談室を運営し始めたFさんからも、次のようなメールをいただきました〔今回の再掲載にあたって、許可をいただいていないので匿名にします――後註〕
心理屋の私の視点としては、植松容疑者は、
自身も「役立たず」と思われることを恐れていたのだろうと考えています。
おそらく幼少時から「良い子」であること、「成果をあげること」、
「親の期待に沿うこと」で自身を縛ってきたような気がしています。
そういう人が大学に入り一人暮らしをすると、
ちょっとした逸脱に憧れて少し生活が乱れますが、
そこまで逸脱しきる気はなく、一応卒業して、
教師になれなくても社会に役に立つ介護職といった選択、
「役に立つ」自分をアピールしようとしたのかもしれません。
ただ、そこに、薬物乱用による精神変調と施設での挫折が加重されて、
妄想状態になったのであろうと推察しています。
世間一般に、「役に立つ人」、「達成による評価」、「人より「上」か「下」か」
という基準のみが横行していることの影響も大きいのではないでしょうか?
基本的には、わたしもこうした考えに立っています。
そしてFさんは、もうひとつ、非常に興味深い考えも寄せてくれました。
実は、私も高校生の頃、「知的障害者に生きている意味はあるか?」という疑問を抱いたことがあります。
それは自分が生きている意味はあるかということの裏返しだったと思います。
結局、「生きている意味の有無は、私が決められることではない」という結論に達しました。
「裁くことの不遜」は「裁かれる恐れ」、「誰にも受け止められない空っぽさ」からくるのかもしれないと考えています。
F・J
この点についても、じつは、わたしも同様なのです。
小学校2,3年生のころ、目の前で、いつも、体を突っ張らせたまま、ごろん、と横になったままの弟を見ながら、「弟は、こんなにたいへんなのに、何のために生きているんだろう」などと、ときどき考えることがありました。もちろん口にはできません。
親が死んだあとは、自分が見ていくんだろうな、とぼんやりと(ほんとうにぼんやりと、ですが)、考えることもありました。その他いろいろ。だからわたしも、小学校3年生くらいから、弟を見て「生きている意味があるんだろうか」みたいなことは、考えていたような気がします。
つまり、ひょっとしたら、わたしもまた植松容疑者と、同じことを考えていたかもしれないのです。
生きて、生活の時間を共にしていくということは、きれいごとばかりでは済まないのはもちろんです。わたしは幸いなことに、世間様との間で引き起こされる、激しい不況和音の渦中におかれることは少なかったのですが、それでも、きれいごとだけでなかったことは確かです。
ただし、時間をかけてだんだんと気づいていくのですが、わたしの場合は、彼が生きてそこにいるということを、あるいは、これから一緒に生きていくのだろうということを、肯定するために、その問いを問い続けていました。問う必要があったわけです。その後、家庭内事情がやまのように生じてきて(全部割愛しますが)、彼は東京の島田療育園(当時)に入園し、そこで2年ほど過ごして他界します。
あまりこんな言い方はしない方がいいのですが、彼の命と引き換えに、わたしはいまここにいて、好き勝手なことをこうして書いているわけです。
ともあれ、Fさん同様、わたしも「障害をもって生きるということには、どんな意味があるのだろうか」ということを、とても長い時間をかけて考えてきました(どう考えたか、その間のことは、2003年に出した『ハンディキャップ論』(洋泉社新書・y)という本にまとめています)。ところが、「どうして生きているのだろう」という同じ問いを、植松容疑者は、逆のほうに(死んだ方がいい、殺した方がいい)という方向に、一気に引っ張っていき、そして実行してしまった。
こんな愚かしい考えを持ち、こんな愚かしいことを実行してしまった、という衝撃以上に、自分が20年、30年かけて考えてきたことを、一瞬のうちにコケにされてしまった。そんな衝撃というか、憤りというか、どうにも言い難い怒りのようなものを感じました。
だから「障害者には生きる価値はない、殺してもよい」という考えが報道を通して表明されたとき、様々な意味で、断固として「それはとんでもなく間違っている」と、声を大にして、言わなくてはならない、強くそう感じたのです。
だから今回だけは、情報がないとか、証拠が特定されていないとか、判決が出るまでは推定無罪の原則があり、逮捕段階で植松容疑者を犯人と決めつけることはまちがいだとか、これまで自分のなかで原理・原則としてきたことを脇に置いてでも、言わなくてはならないことがある、と感じてきたのでした。第2回目のブログでは、そのことを書いておきたいと思いました(2016・8・5)

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